昭和40年02月12日 朝の御理解
今朝から、私はこんなことを考えた。床の中で目覚ましのおかげを頂いたのが、丁度、四時。そのまま、床の中でいろいろ考える事です。本当におかげを頂いて、暑い事もなからなければ、寒い事もない。もう一息眠りたいといったような眠さもない。ちょうどいい。暑いもなからな寒いもない。痛みもなからな、痒くもない。心の調子といったら、最高のコンディションである。
こう云うような状態で、こう云うような、体の上にも心の上にも調子のよい。この素晴らしい心の調子で、本気で御用に使うて頂くぞと云う感じをいたします。ね、私は信心は、あの自分の事を言うちゃおかしいですけれども、ここんところのおかげを頂かにゃいけんと思うですよね。暑い事もなからなければ、寒い事もない。痛くもなからなければ、痒くもない。ひもじい事もなからなければ、と言うて食べ過ぎて苦しいと云う事もない。云うなら、あれが欲しいこれが欲しいと云うような事もないような状態。
こう云う状態で、本気で、神様に使うて頂こうと云う事にならなければ、いけんのじゃないだろうかと、こう思うですね。本当に調子がいい、ね。ちょうどそれは風呂から上がって、ポカポカとぬくもって、そして、サァ、その気持ちのよいので、一杯飲もうかと、どこにか遊びに行こうかと。私はえてして、信心を頂いておりませんと、こう云う事になるのですよ。だんだん、調子が良くなりましてですね。
体の調子だけじゃありません、家の調子でもその通り。もうたいして借金もなくなった。ね、足らんと云う事もない。あれも整うた、これも整うた。気分がいい。その気分がいいので、例えば、なら道楽の一つもいっちょ始めようかと云うごたるふうな事になったんではいけんですね。そう云う素晴らしい調子をです、身の上にも家の上にも頂かせてもろうて、そしてサァーこの調子で、ね、
このおかげを頂いたこの調子で、いよいよ神様の御用に使うて頂くぞと云う事になってこなければ、私、信心を頂いておる値打ちも、それからの信心の成長もないと私思います。ね、どうでしょうか。あれと云い、これと云い、思う事もなくなり、ね、いわば今朝の私の調子のように、暑いとも寒いとも、痛いとも痒いとも、何とも言えん、云うなら極楽の気持ちである。その極楽の気持ちでですたい甘い物の好きな人は、体の調子が丁度いいもんですから、甘い物の方に手を出す。
こんな素晴らしい心の調子の時、体の調子の時、辛い物の好きな人は辛い物に手を出す。これではね、私は、それからのお蔭は受けられんと思う。こう云う素晴らしい心の調子、体の調子、こう云う調子でいよいよ神様にお使い回しを頂くぞと云う事に私なってこないとです。必ずお蔭を落とす元になります。そう云う心の素晴らしい調子をもってです、いよいよ実意丁寧に、一事一事を実意丁寧にお蔭を頂いていこうと云う。皆さん、どうでもここのところのおかげを頂いてもらいたいと思う。
ところが、皆さんの場合はどうですか。暑さを感じたり、寒さを感じたり、ここの痛いを感じたり、ここの痒いを感じたり、ね、しておられることが、信心の修行の迫力ともなって、信心が、まあ、出来ておると、そう云う感じぢゃないでしょうか。ね、ですからどうでもこうでも、そのおかげを頂いてもらわんならん。それは、私が今朝から感じますように、本当に暑いとも思わん、寒いとも思わん、痛いとも痒いとも何とも云えん、まあ、これが、云うなら極楽だろうとこう思う。
お風呂に入って、極楽と感じるようなもの、ね。そこで、その素晴らしい、形の上にも心の上にも、その素晴らしい、そのコンディションをもってですたい、いっちょ遊びに行こうか、いつちょ飲もうかと、甘い物の好きな人はいっちょ甘い物を食べようかと云う事になったら、必ずおかげは落とさんに致しましても、お蔭はもうそれまでだと云う事。又、次には痛い痒いが始まったり、ひもじかばってん食べられん、腹が太すぎてずう苦しいと云うような事になって来るのです。ね、
信心させて頂いて、例えば暑い寒いがありましても、信心修行によって、暑かったけれども暑さを感じず、寒かったけれども寒さを感じんですむようにおかげを頂いた。この心の素晴らしい調子をもって、今日も一日、神様の御用に使うて頂こうと云うのが、お互いのいわば、皆さんの信心でなからなければならないと思うのですよね。寒かった、いや暑うもあった。痛くもあった、痒くもあったけれどもそこを信心修行によってカバ-させてもろうたら、今、私が今朝から感じたような調子を心の中に頂かれる。
いわゆる、和賀心なんだ。和らぎ賀ぶ心と云うのが頂けて来た。例えて云うならば、寒かった、一生懸命修業させて頂いたらポカポカぬくもってきた。サァ、このポカポカぬくもってきた調子で、神様に喜んで頂くような御用にお使い回し頂くぞと云う気にならなければいけんのです。ところが、そう云う調子になって参りまして、痛さも感じん寒さも感じん。丁度いい。何とも言えん心のコンディションも素晴らしい。ね、
そう云う時に、甘い物の好きな人は甘いのに手を出す。辛い物の好きな人は、この素晴らしい調子で辛いもん飲んだら、まあだよかろうごたる気がする。それではいけない。そう云う調子をもって、神様に喜んで頂く御用にお使い回し頂こうと云う事になって来なければいけんのです。私、ここん所を繰り返し繰り返し申しておりますけれども、今日はここん所を頂いて頂かなきゃいけんから、繰り返し申してるんですよ。
皆さんが、例えばお蔭を頂かれた。本当に暑さ寒さも感じんようになった。ね、本当にこれ以上の事は望まんと云うくらいに、まあ極楽のお蔭を頂かれたらです、その素晴らしい調子をもって、サァー、いよいよ御用に使うて頂くぞ、お使い回し頂くぞと云う事になってこなければならない事をです、本当に信心によって一つ極めとかなければならんと云う事です。ね、ここんところがね、信心がでけとらんといかんです。
それからが愈々実意丁寧です。その素晴らしい心のコンディションをもってです、一事一事が実意丁寧をもって、限りを尽くしていかれる。ね、素晴らしいそう云う痛いも痒いもない、暑いも寒いもないと云うその時にです、えてしてろくそなあり方にならしてもらう。ろくそな事になってしまいがちである。そして例えて云うなら湯冷めしたという結果になって来るわけですね。風邪を引いたというごたる事になって来るのよ。
せっかくのおかげげに風邪ひかせちゃならんでしょうが。ね、どうでしょうか。皆さんの調子が良い。ね、もういよいよ調子が良い時には、良い時ほどです、本当におかげを頂いて有難いことなあと云う時には云う時ほどです、その一事一事を実意丁寧をもっていきませんとやりそこなうですよ。実意丁寧をもって御用に使うて頂くと云う事。「修行は小口から」と今日は頂いた。修行、すいかをこう心眼に頂くのです。
『すいかを小口の方から切りよるところを頂いた。』ね、どげんないっちょ修行しようかと云うてから、向こうの方にあるのではない。修行はもう只今から、その事を実意丁寧に取り組んでいくと云う事なんだ。それが素晴らしい心のコンディションのおかげ頂いて、その事がなされる時です、いよいよ有難い事になってくるですね。私は、今朝そう云うような気持ちで、久保山先生ところの稔さんの奥さんのお母さんの霊の慰霊祭を今日、私が奉仕します。夕べからお願いしてある。
今朝からもその事をお願いさせて頂いとった。そしたらね、今日の御理解、今私が繰り返し言うたことばよう皆さんが頂いとかんとこれから私が言うところのおかげを頂かれんとですよ。どうですか、今、私が申し上げた事が分かったでしょう。私がその事をお願いさせて頂きよりましたらですね、『神に使われて、神を使え』と仰いました、神様が。神に使われ、神を使え、と仰っしゃる。これは私に下さった事。
そして私は今朝方、床の中からずっと考え続けて来た事。成程こう云う素晴らしいコンディションでこの調子で、いよいよ神様にお使い回しを頂くぞ、御用に使うて頂くぞというて神様に使われて、ね、人間の力、智恵ではどうにも出来ない事はそれから先、神を、「神に使われ、神を使え」と。ここが素晴らしいでしょうが。これは、皆さんにはよくお分かりにならんと思いますけれどもです、霊の世界なんかもう実に、この位デリケ-トなものはありません。
天地の親神様のお蔭を頂かなければです、天地の親神様のおかげを頂かなければもうどうにもこうにも出来ない世界なのです、いよいよこの霊の世界は。何処のどう云う隅におりましてもです、天地の親神様のお蔭を頂かしてもろうたら、それをいわばお救いする事も出来れば、お慰みする事も出来るようなお繰り合わせ頂くのはです、ね、神様が使うて下さらなきゃ出来る事ではないです。
そこに私共の真心と云うのが添えられる訳なのです。それが、日頃です、なら、私自身が神様に使うて頂いとかんと、「今日は、小西の何々と云う霊の慰霊祭を子供達が仕えますのでどうぞよろしくお願いいたします」と云うてもです、神様が知らん顔しござればどうするですか。ね、「神に使われ、神を使え」とこう仰います。神様が、私共がお願いする事によって働いて下さる事はです、神様の働きと云う事になってくる時に、とても私共の人間の智恵、力で分かる事ではないほどのお蔭が頂けるのですから。
そこで私共がです、どんなに術ない、例えば修行させて頂いておりましても、その術ない修行がです、術ないを感じんですむ位な、例えば寒くて寒くてたまらんならです、一生懸命の修行をさせて頂いて、ポカポカするような調子をまず頂かなければなりませんですよ。ね、そして寒いぢゃない、体の調子もポカポカぬくもりを頂くような、そう云う状態でです、サァ-この調子で神様に使うて頂くぞと云う事になるのですよ。
神様に使うて頂くと云う事は、いつも私が申しますように、お広前の御用をせんならんと云う意味ではありません。いよいよ神様に使うて頂くぞと云う事は、いわば修行は小口から足元から。そのこと一事一事を実意をもって商売をさせてもらい、実意をもって百姓をさせてもらい、実意をもって炊事場に立たせて頂き、その一事一事をです、貴方の御用として実意丁寧につとめぬかして頂くと云う事なんです。
こんな有難い事はないでしょう。それが神様の御用をなす事なんだ。それが神様に使われることなんだ。ね、こう云う素晴らしい心の調子で、いよいよ今日も御用に使うて頂くぞと云う事なんだ。そして神様の御用にしっかり使うて頂いて、いよいよの時には、「神を使え!」と。神を使うてくれといわんばかりの感じ。ね、成程、一生懸命仕事はしよる、お商売もしよるけれども、自分がしようとしてる。
自分の商売ぢゃもん、自分の仕事ぢゃもん。食べる為に働きよるとぢゃもん。それだったらどうする。いよいよ今度神様を使う時に、神様が使われて下さらなかったら、どうします。ね、私は少しお互いがです、実意丁寧が欠けとらせんぢゃろうかと思います。小口からの修行をしよらんのぢゃないだろうか。いやこげんしてから朝参りしよるけんで、ぐらいな事がもう修行がすんだとでも思うたら大間違い。サァ-今日も朝の御祈念に御参りさせて頂いて、この心のコンディション、心の調子のおかげを頂いた。
この調子で、今日もさあ小口から修行をさせてもらう、足元から実意丁寧に御用をさせて頂こうと云う事になって来てです、そう云う日々が繰り返されて、おかげ頂いてこそ初めてです、すぐに神を使う事の出来れるおかげも頂き、また神様も使われて下さる事を喜んで下さる事の出来るようなおかげになってくるのぢゃないかと私は思うですね。おかげ頂かねばなりません。